まちなかサッカースタジアム

2024年のJリーグ開幕に合わせ完成したサンフレッチェ広島の新しい本拠地、エディオンピースウィング広島。なかなか都合も付かずチケットも取れずで昨日やっと初めて訪れました。

広島の街中に現れた3万人規模のサッカースタジアムはサッカー専用フィールドを持つ素晴らしいサッカー環境を提供していると共に広島の街に新たな人の流れを生み出し活気を与えています。箱モノと揶揄されることもあるスタジアムですが、建築というハードが徐々に力を発揮しています。
また、マツダスタジアム→エディオンピースウィング広島の成功から、バスケットボールのアリーナの建設についても前向きな発言がみられはじめ、野球だけではなくスポーツが持つエネルギーが広島の街に及ぼす好影響が再評価され始めているように感じます。


さらに、今年の夏にはピースマッチとしてサンフレッチェ広島 vs VfBシュトゥットガルト(8/1)や長崎U-15選抜 vs 広島U-15選抜(8/7)にJリーグ以外のサッカーの試合が開催されました。この機に広島を訪れた選手たちはスタジアムからほど近い平和公園や原爆資料館を訪れています。Jリーグだけではないサッカーによるスタジアムの利活用によって、この場所だからできるヒロシマにあるスタジアムの価値が生み出されています。その他にも、先日の中国新聞で紹介されていましたがスタジアムを利用したハミングによるイベントコンコースを使った陸上イベントなどサッカーにとどまらない利活用がなされています。

私自身、被爆地広島に生まれ平和について深く考えさせられる環境で育つ中で、テレビ放送などほとんどなかったJFLのマツダSC(サンフレッチェ広島の前身)に憧れサッカーを始め、サッカー日本代表が初めてアジアの頂点に立ったアジアカップ広島大会のスタンドで観戦の楽しみを覚え、Jリーグやワールドカップなどの現地観戦で様々なスタジアムを訪れてその魅力を知りました。学生時代から様々な環境下でサッカーをプレイしましたし、自身の子もサッカーを本気で楽しんでいる中で完成した広島のサッカースタジアム。その活気ある姿は私自身が望んだ形に非常に近しく大変嬉しく、感慨深いとも感じます。

機運の高まり前夜の紆余曲折

中国新聞でも度々特集されていましたが、広島のサッカースタジアムは、かなり昔からスタジアム問題として議論されてきて、紆余曲折を経て完成に至りました。私は建築設計を生業とするものとして、当該サッカースタジアムプロジェクトについて一時期かなり深く関わらせていただいていました。当時、私は日本最大級のスタジアムを設計した設計事務所に所属しており、かつ当該事務所のサッカー部でキャプテンを務めていました。そこへ当該サッカースタジアムプロジェクトの話が舞い込んできます。個人的にはスタジアム設計の経験はないものの、「広島」「サッカー」というキーワードから、当該プロジェクトの設計スタッフとして指名されました。これは私にとっては願ったり叶ったりの話であり、喜んでプロジェクトに参加してプロサッカーチームの皆様と協力し、様々な敷地•規模で計画案を作成して様々な検討を行いました。その中には、中央公園、市民球場跡地は勿論、他の敷地についても検討して計画案を作成しています。

様々なメディアや市や県などの発表による広島のサッカースタジアム完成の経緯は概ね2012年(平成24年)の署名活動やサンフレッチェ広島のJ1初優勝からですが、私が当該プロジェクトに携わっていたのは2006~2007年頃。勿論その前にも様々な動きがあったと思いますが、当時、具体的な敷地で検討を進め、計画案もそれなりに事務所内のサッカースタジアム設計の経験者と共にリアリティをもって、具体的なイメージパースなども作成して発表しています。同時期、日韓W杯で開催都市とはならなかった蘇我スタジアム(現フクダ電子アリーナ)の完成などもあり、広島のサッカースタジアムの具体的な計画案を作成し始めたものと思います。

特に思い出されるのが、2006年の市民球場跡地提案。広島市が民間から広く市民球場跡地の使い方の提案を求めた実質上の提案コンペでした。

そこではサッカースタジアムを中心とする案はいくつか提出されましたが、サッカースタジアムの設計経験のある私たちは自信をもって提出していますし、何より私たちの提案チームは当該スタジアムを使用するのプロサッカーチームが主体となっているチームで、その実現可能性や推進力は非常に高いものと自負していました。

会社のサッカー部が所属する全日本設計事務所リーグにて優勝した折、プロサッカーチームの担当者からお祝いに頂いたサインボール。使用した試合球にベンチ入りメンバーのサインを入れたものを頂きました。No.7やNo.8はレジェンド元選手、当時の番号からNo.28は最近は様々なテレビ番組でも見かける元代表選手だと思います。今でも、我が家のリビングに飾られています。

ところが、後の公表された審査経緯によると「サッカースタジアムはダメ」として、サッカースタジアムの提案については全て(確か4~5案ぐらいあったと思います)初めに審査から除外されています。私たちの提案は残念ながら、碌な議論もなされなかった。土俵に載せてもらうことさえできなかった訳です。広く提案を募るという趣旨だったのにも関わらず。

それまで、議論を重ね様々な検討を実施し準備してきたチームでしたが、残念ながらそれ以降は集結することはありませんでした。

機運の高まりに

2013年、私は当該設計事務所を退職し、広島で独立します。ほぼ時期を同じくしてサンフレッチェ広島J1初優勝、37万人の署名活動を経ての広島県、広島市、広島商工会議所、広島県サッカー協会による検討協議会が始動しています。その協議会ではかつて私たちが行った検討による方向性とは違う、ある意味恣意的と感じる方向性をが定まっていくのをただ傍観するしかありませんでした。

2016年、私自身のブログサイトで私が感じていることや私の経験から言えることを発信しています。

正確な数字は覚えていませんが、相当数の「いいね」があってそれなりの反響はあったかと思います。当時、宇品みなと公園が有力となっていた中で、市民球場跡地ではなく中央公園に建設地が決まっていく訳ですが、サッカースタジアム建設に対して少しでもいい影響があったら嬉しく思いますがどうだったでしょうか。

結果、落としどころとして建設地は中央公園となったのだろうと思いますが、2006~2007年頃、勿論中央公園も検討を行っていました。中央公園は市民球場跡地と比較して南北方向がやや短いので、南北方向に限っていうと中央公園より市民球場跡地の方がスタジアムは計画しやすいということ、街中であれば中央公園よりも市民球場跡地がベターということで考えていました。確か、川側ではなく広島城側の範囲で検討していたと思います。(ちなみに、サッカースタジアムにおいて日本では南北方向を長辺とするように配置し、メインスタンドを西側に配置するのがセオリーです。理由は太陽光の競技者に対する影響と観覧者(特にテレビやメインスタンドに対する)に対する影響です。)

進む建設事業と

スタジアム問題についてはずっと注視し、時折ブログやフェイスブックなどでコメントしていましたが、街中である中央公園に候補地が定まり、コンペによって設計・施工事業者が決まっていく中で、いよいよスタジアム問題が解決し、街中に広島のためのサッカースタジアムができるということは大変嬉しく楽しみである一方、自分なりに想いをもっている広島のサッカースタジアムの建設に全く関わることができない悔しさは大きく、以前より繋がりがあった設計主体である建設会社に何か協力をできないかということを打診し、設計者の一員として名前は出せないけどという(至極当たり前)の条件のもと協力できるという話もあったものの、急ピッチの設計・施工であり、多くの設計・施工者が関係する中では実際には参画することができませんでした。

スタジアムの完成と試合観戦

建設の是非も、建設場所も、費用負担も、私自身の廻りでも紆余曲折の道を辿りましたが、多くの方の尽力により2024年とうとう完成しました。昨日は残念ながらサンフレッチェ広島は負けてしまいましたが、スタジアム内の熱気と臨場感は素晴らしいものでしたし、試合前後の紫のユニホームを着た人たちが溢れた街中や試合前の芝生広場でくつろぎ楽しむ姿は強く記憶に残りました。

これからエディオンピースウィング広島によってより街の賑わいが創出され、サッカーなどの文化の醸成するとともに、平和の発信がなされること。それらによって大変だったけど「ここにこれができてよかった」とより多くの人が思えるようになることを切に願います。


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